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2012-07-26(Thu)

スキタイって何?(3)-パジリク古墳群の発掘調査-




本日3本目の記事です。「暇なのか」と言われそうですが、非常にわくわくすることがありましたので、書くことにしました。

大阪文化財研究所の伊藤幸司さんから、パジリクの古墳群の調査を記録した写真をお借りしました。伊藤さんは1991年8月に保存科学部門でこの調査に参加されました。
私が今回の特別展を担当したこともあり、以前から写真を見せてほしいということと、展覧会で活用させていただきたいということをお願いしていました。伊藤さんからは快く承諾いただきました。

さて、パジリク古墳群とはロシア連邦のアルタイ共和国にある古墳群で、スキタイ文化を色濃く残します。黒海北岸からはるか4000㎞東に離れたところまで、スキタイの文化がひろがっていたのです。
location of Pazyryk
非常に壮大です。

お借りした写真をいくつか紹介します。

ヘリコプターで上空から撮影した古墳です。川の左側の円形のものが古墳です。
Pazyryk041.jpg

発掘中の古墳です。もとは石で覆われていました。
Pazyryk121.jpg

いけにえにされたと思われる馬の骨の調査風景です。
Pazyryk044.jpg

Pazyryk045.jpg

6月20日のブログに、ヘロドトスの記述に表されたスキタイの埋葬習俗のことについて触れましたが、まさにその光景を思い起こさせます。

「リアル・スキタイ」

今回、お借りした写真はアルバム20冊に上ります。発掘調査の過程や、発見の瞬間がわかる数々の写真を見て、わくわくするのは私たち考古学をしている者だけではないと思います。「へえ~」「ほお~」という言葉が思わず出てしまいました。
私なりに整理し、伊藤さんに事実確認をしながら、またパジリクの調査の紹介する場を作りたいと思います。


ところで、これは伊藤幸司さん。釣りをしています。
Pazyryk059.jpg
伊藤さんは大阪市文化財協会のアウトドアクラブの部長をしていました。私もこのクラブで泉佐野とか和歌山などに釣りに行ったことがあります。といっても、私は餌の付け方さえわからなかったので、伊藤さんに全部してもらって、釣り糸を垂らしていただけですが。

パジリクではこんな魚が釣れたみたいです。
Pazyryk048.jpg

Pazyryk061.jpg

この後、塩焼きにして食べたのでしょうか?おいしかったですか?


さて、明日はなにわ歴博講座で私が「東と西をつなぐもの-特別展「ウクライナの至宝」の紹介を兼ねて-」という題目で話をします。明日の話はウクライナやスキタイの紹介をしたうえで、はるか昔の東西交流について、考古資料を基に話をするわけですが、非常に貴重なお写真を借りることができましたので、一部使わせてもらいながら、東方に移動したスキタイ文化についても紹介したいと思います。




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2012-06-20(Wed)

スキタイって何?(2)

突然ですが、スペースワールドに行ってきました。

spaceworld.jpg

ではありません。スペースワールドの向かい側にある北九州市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)に行ってきました。

inochitabi.jpg


6月16・17日にここで「沖ノ島祭祀と九州諸勢力の対外交渉」という研究会(九州前方後円墳研究会主催)がありまして、私も参加しました。発表はしませんでしたが、紙上参加をさせていただきました。

okinosima.jpg

happyou.jpg

なお、資料集は約600ページ。1日半の研究会ではとてもとり上げきれません。すべてをきっちり議論しようとすれば、4日くらいかかるんじゃないでしょうか。
非常に充実した研究会だったのですが、あまりにも内容が豊富すぎて、脳みそが飽和状態です。ブログの更新が空いてしまったのはそのせいかもしれません(言い訳ですね、ごめんなさい)。

さて、近況報告はこれくらいにして、スキタイの話を続けたいと思います。

スキタイはまさに黒海沿岸の覇者です。王は非常に立派な墓に葬られ、きらびやかな副葬品が収められました。それは発掘調査成果でも明らかになっています。
この写真はスキタイの古墳のひとつ、ネチェエヴァ=モヒーラ古墳です。

Nechaeva Mohyla

さて、古墳はその名のとおり、お墓です。発掘調査ではお墓の構造や副葬品の置かれ方、祭祀の痕跡などを調べます。あくまで痕跡ですので、そこからいろいろと考えを巡らせて、お葬式の進め方などを復元します。

スキタイの王のお葬式については、幸いなことにヘロドトスが非常に具体的な記録を残しています。今回の特別展の監修者であり、スキタイや古代の遊牧民族についてのご研究をされている林俊雄先生の著書にはこのヘロドトス著書『歴史』と実際の発掘調査成果を対比していて、より具体的にスキタイの葬式について知ることができます。

まず、墓の構造については『歴史』には、「四角形の大きな穴を掘る」と書かれていますが、スキタイの古墳でも縦方向に深い穴を掘ります。また、王を葬る際に、遺体の内臓を取り出してから香りの強い草などを詰めて縫い合わせると書かれていますが、これはいわゆる「ミイラ化」の作業と考えられ、発掘で見つかった遺体にも同様の処置がされていることが確認されています。

また、王を葬るときになんと殉葬(王様についていくため、いっしょに死ぬこと)をしているんですね。その場面を記したヘロドトスの記述がなんとも生々しい、、、、、。林先生の著書からその部分を抜粋しますと、、、

「(王の死後)1年後に、故王に仕えた従者のうちもっとも優れた者50人と最良の馬50頭を絞殺し、、、、、、、(ピイイイイイイイ)、、、、、、 。半分に切った車輪を前後に2つセットで50組、縁を下向きに立てて杭で固定し、前の半車輪に馬の肩を、後ろの半車輪に馬の腿を載せ、馬に手綱と轡(くつわ)をつける。50人の遺体の背骨に、、、(ピイイイイイイイ)、、、、、、、、、 。」

あまりに生々しい表現のために「ピイイイイ」を入れました。なんかよくわからない引用になってしまいましたが、知りたい方は林先生の『スキタイと匈奴 遊牧の文明』(講談社)をお読みください。

この殉葬についても、ウクライナのチョルトムリク古墳では、古墳の周囲で大量の人骨と馬骨が見つかっていますので、考古学の発掘調査結果を考える際にヘロドトスの記述は非常に役立つといえます。

なお、私はこの一節を読んだ時、素直にこう思いました。

スキタイの時代に生まれなくってよかった。

また、もっとも優れた50人が死ななければならないなんて、まさに「芸は身を滅ぼす」というべきでしょうか。。。。。幸いなことに、私はこの50人には入らないと思います。

ちなみに林先生の代表的で、私のような門外漢にも非常にわかりやすい著書は以下の写真のようなものです(右側4冊)。一番左端の雪島宏一先生の著書も、スキタイ研究について詳しく、かつ読みやすかったです。お勧めです。なお、これらの本は展覧会が始まったときに、大阪歴史博物館2階の学習情報センター「なにわ歴史塾」に参考図書として置く予定です。

P1050668.jpg
2012-06-13(Wed)

スキタイって何?(1)

今回の展示のメインは、何といっても「スキタイ」、そしてその黄金製品。

私はこれまで考古学を勉強してきたので、スキタイというとすぐに騎馬遊牧民というのを連想します。

そもそも私がこの展示の担当になったのは、1年半ほど前に、どんな特別展を催すかを検討する係の学芸員が、上司との会話の中で発した「スキタイ」という言葉に本能的に反応してしまったからかな、と思います。「スキタイ」と聞いたとたん、振り返ってしまいました。

普段はスキタイを専門的に研究しているわけではありませんが、考古学の中では存在感が非常に大きく、数々あった世界の民族・国家の中ではメジャー級だと、私は思っていました。

しかし、準備を進める中で意外なことがわかってきました。

「スキタイって何?」というのをしばしば聞くのです。先日も書きましたが、ウクライナの人さえ「スキタイって何?」と言っていました(6月2日の記事)。「スキタイ」は「好きったい!」という博多弁ではありませんし、鯛の一種でもありません。ユーラシアを席巻した騎馬遊牧民スキタイです。
ただ、スキタイをメジャー級だと思っている考古学の方が狭い世界なんでしょうね、、、、、、、


スキタイとは、紀元前7~3世紀、今から約2500年ほど前に、黒海北岸から北コーカサス(カフカス:黒海とカスピ海の間の地域)にかけてに勢力を持った騎馬遊牧民であり、王を擁した国家でした。彼らは文字を使った記録を残しませんでしたが、ギリシャの歴史家ヘロドトスの著書『歴史』には、スキタイについて大きく紙面を割いて、記録が残されています。そこにはスキタイの起源や習俗、戦術など、きわめて詳細に記されていることから、スキタイの具体像を知ることができます。

さて、そもそもヘロドトスがどうしてスキタイについて関心を持ったのでしょうか?それは単純に言うなら、スキタイがギリシャ人にとって、非常に気になる存在だったからです。

紀元前5世紀頃のギリシャにとって、最大の脅威は当時の最強国家アケメネス朝ペルシャでした。ペルシャ王ダレイオス1世(紀元前558年頃~紀元前486年)によって引き起こされたペルシャ戦争(紀元前492年から紀元前449年)では、ギリシャの総力戦を通じてやっとのおもいで勝利を得たものの、脅威には変わりない存在でした。

アケメネス朝ペルシャの侵略をうけたもうひとつの国があります。それがスキタイです。上記のペルシャ戦争の前の紀元前515年頃に、スキタイはペルシャから攻撃を受けましたが、なんとそれをを撃退してしまいます。その戦法は、ペルシャ軍が近づいてきたら、その土地を焼き払ってそこで水や食料を供給できないようにしてから撤退し、退散しようとしたときに攻撃するというものでした。こういった遊牧民特有の機動力と、地の利を生かした消耗戦を通じて、ペルシャは退却せざるをえなくなったのでした。

「必死のパッチで」なんとか勝利を得たペルシャを撃退したスキタイ、ギリシャ人にとって気にならないはずはありません。まさに、ギリシャ人的「スキタイって何?」なわけです。

ちなみに、大阪歴史博物館では5年前に特別展「ペルシャ文明展-煌めく7000年の至宝-」が開催されました。そのときのバナーです(とっくに終わっていますから、ご注意を)。

Persia.jpg

そのペルシャを破ったスキタイが5年後に大阪に到来するのも何かの縁でしょうか。

スキタイについては、これからも数度にわけて紹介したいと思います。

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